続 宗教と科学の関係についての考察
(新島学園短期大学研究紀要)



続  宗教と科学の関係についての考察
―神の無限なる愛を求めて―

小和瀬 勇


Considering the Relationship between Religion and Science (Part2)
―Seeking the Infinite Love of God―

Isamu Kowase


Niijima Gakuen Junior College
Takasaki, Gunma 370-0068, Japan



- 要 旨 -
 本稿では、神の愛の無限を求めて、聖書の「神の愛の真実」と自然科学の「無限」の関係について論述し、両者から得られる人類に与えられた福音を考察した。

- Abstract -
“Seeking the Infinite Love of God“, this article discusses the relationship between the real love of God in the Bible and the infinite in natural science. It considers the Gospel given to the human race from both sides.


第1章    はじめに

 私は宇宙の創造をめぐって、新島学園短期大学研究紀要第40号に、「宗教と科学についての考察」を投稿した。その中で、宗教と科学との関係の具体例として、プロテスタント教会における信仰告白とアインシュタインの相対性理論から導かれる「宇宙の創造」と「人類の堕落」について述べた。この論稿の続編として、本稿では、宗教と科学についての考察として、「神の愛の無限」について論ずるものである。
 上記第40号に述べたように、ローマの信徒への手紙1章20節(新共同訳)には『世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。』と書かれている。さらに、相対性理論をつくりあげた物理学者アインシュタインは「宗教なくして科学は不具であり、科学なくして宗教は盲目である。」と言っている。日本の最初のノーベル賞受賞者(物理学)である湯川秀樹博士は「これからの時代は科学がものすごく進歩しますが、どんなに進歩しても、人類には二つの解決できない神秘のものがあり、それは『宇宙』と『生命』の神秘であります。これは人類の永遠の神秘です。」と語った。そこで、宗教と科学とはどのような相関関係があるのか、宗教と科学との関係はどのように把握したらよいのか、その関係について第40号に続けて考えてみたい。


第2章 聖書における「神の真実な無限の愛」

 ヨハネの福音書3章16節(新改訳2017)に『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』と書かれているように、神は人類を愛するために、そのひとり子をお与えになられたほどに、神の愛は深く真実である。ヨブ記11章7~9節(新改訳2017)には、『あなたは神の深さを見極められるだろうか。全能者の極みを見出せるだろうか。それは天よりも高い。あなたに何ができるだろう。それはよみよりも深い。あなたが何を知り得るだろう。それを測ると、地よりも長く、海よりも広い。』と書かれている。
 創世記1章には、宇宙のはじまりが描写されている。すなわち、「神が天地を創造したはじめに、地は荒涼、混沌としていて、闇が淵を覆い、暴風が水面を吹き荒れていた。そこで、『光あれ』と神がいった。すると光があった。神は光を見てよしとし、光と闇を分けた。神は光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ。夕となり、朝となって1日が終わった。」このように、創世記は筋道を通して宇宙の創造を語り、次に植物・動物・人類の創造を示している。そして、時間と空間が世界の創造と共に始まり、現代に至るまで、人類の歴史が続いているのである。
 聖書の神は、父なる神、イエス・キリスト、聖霊からなる三位一体の神である。『「父なる神」は神であり、「イエス・キリスト」は神であり、「聖霊」は神である。』神は、「父なる神」「イエス・キリスト」「聖霊」という三つの独立した位格(ペルソナ)を持ち、それでいて、唯一の無限のお方である。もとより、有限の人間は原罪のため、「無限の神の愛」を理解し受ける資格はないが、人間の罪を許すため、イエス・キリストが十字架にかかられて、贖罪の死をとげられた。ヨハネの手紙第一4章9節(新改訳2017)には、『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。』と書かれている。この聖句により、「無限の神の愛」は、キリストをとおして現在の私たちに示されているということがわかる。続いて、12~13節(新改訳2017)には、「いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。」とある。これらを理解し認め、受け入れている者には、「無限の神の愛」が注がれ、その罪が赦され永遠のいのちが与えられる。有限の人間が、神の恵みのゆえに無限を理解し、無限の愛をいただくことができるということは、本当に素晴らしいことだと思う。
 次に、未来における「神の真実の愛」を述べてみたい。預言書であるヨハネの黙示録21章1~4節(新改訳2017)には、『また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」』と書かれている。ここに、世の終わりに神がなされる創造の幻が示されている。すなわち、未来の天地は現在の天地とは異なる、全く新しい天地である。また不思議なことに、そこには海への言及がない。なぜ新しい天地には、海がないのか。それは東日本大震災で生じた津波のごとく、海には神の秩序を脅かし、破壊しようとする悪の勢力が存在しているからではないだろうか。内村鑑三の聖書注解全集14巻には、〔海は混乱の状態〕と書かれており、またマルコの福音書4章39節(新改訳2017)においては、『イエスは起き上がって風を𠮟りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。』と書かれている。このように、神は悪魔的な混乱をもたらす自然界をも支配され、「神の真実の愛」は、新天新地の創造の折、『彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。』のである。その新天新地には愛といのちが溢れ、海のような混乱もなく、「いのちの水の川」の流れる再創造の世界を神は用意しておられ、人類をそこに導かれるのである。


第3章 自然科学における「無限」について

 自然科学における無限について、考えてみよう。物理現象において、もっとも基本的なものの中に、オームの法則がある。すなわち、「導体に流れる電流Iは、電圧Vに比例し、抵抗Rに反比例する。」ということである。抵抗R〔Ω〕に、電圧V〔V〕を加えると、電流I〔A〕は、オームの法則から次のように表される。


電力エネルギーにおいては、直流でなく、交流を主に取り扱うが、交流理論の場合、抵抗の概念として、インピーダンス(単位は〔Ω〕)が存在する。
 ここにおいて、抵抗R〔Ω〕(交流においては、インピーダンスZ〔Ω〕)が0に近づけば、電圧V〔V〕を加えると、電流I〔A〕は、限りなく大きくなりその極限値は無限大に限りなく近づく。これは超伝導という現象である。この現象が実際に未来の新幹線として、リニアモーターカーに利用される。車両に載せた超伝導磁石と、ガイドウェイに並べた浮上コイル、推進コイルに電磁誘導現象により発生する電気磁気力によって、車両が浮上し超高速で走行することができるのである。
 現代の科学者は、アインシュタインの相対性理論により生み出された E=mc に従い、物質をエネルギーに変えることができると同様に、エネルギーを物質に変えることができると考えている。また、科学技術の限りない進歩は、宇宙の探検を目指し、1969年7月20日に、アポロ11号が月面に着陸した。写真1は、その時宇宙飛行士が月面に残した足跡である。創世記1章1節(新改訳2017)に「はじめに神が天と地を創造された。」とあるが、月は人類にとって自分の足で立つことができる「場所」となったのである。すなわち月はこの場合「天」でなく、「地」に属するものとなったのである。さらに、太陽や宇宙の星を観測すると、地球に存在する原子と全く同じ構成であることが判明している。全宇宙には、神秘なことが無限にあるが、これは科学技術的には、「天」というよりもむしろ「地」の探求と考えられるのではないか。理論物理学者であり、カトリック教会の聖職者である三田一郎名古屋大学名誉教授は、宇宙全体を「地」と考え、〔「創世記の【天】を【天国】に、創世記の【地】を【宇宙】という読み方(理解)にすべきである〕と、「 科学者はなぜ神を信じるのか」(講談社)の中で説いている。

写真1 宇宙飛行士が月面に残した足跡

 一方、無限の科学技術の進歩は、人間や社会に大きな影響を及ぼしているが、生命科学の発展には倫理的な問題が重要である。病気の診断、予防、治療を著しく向上させている一方、その発展は生命倫理上に大きな課題があり、現代医療においては人間の尊厳を守る倫理観が強く求められている。


第4章 聖書の「神の愛」と科学の「電流」との関係について

 人は神に近づく程に、罪の自覚は大きくなる。テモテへの手紙第一1章15節(新改訳2017)においては、『「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。』と書かれている。また、ヨハネの手紙第一3章6節(新改訳2017)には、『キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。』9節には『神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。』と書かれている。
 第2章で聖書における「神の真実な無限の愛」、第3章で自然科学における「無限」について述べたが、聖書と自然科学の関係を比較対応してみたい。ここで、「神の思い」を「電圧」に、「神の愛」を「電流」に、「人の罪」を「抵抗」に対応させて、三者の関係性を表1に示す。
表1 聖書の「神の愛の無限」と科学の「電流の無限」の関係

 表1において、聖書における「神の愛」を自然科学における「電流I」と対応すると、自然科学のオームの法則より、『抵抗R〔Ω〕が0になれば、電圧V〔V〕を加えると、電流I〔A〕は、無限になる』ので、『人が罪を犯さなくなれば、神の愛がその人に無限に注がれること』が理解できると思う。ここで、オームの法則において、「電流」は「I」で表記されており、日本語の発音は「あい」すなわち「愛」である。日本人として、これは偶然であるが、ありがたく、うれしいことである。なお、自然科学においては、電圧V×電流I=電力Pであるので、
「神の思い」×「神の愛」=「神の力」
と考えて良いと思う。神は無限であり、愛である。神の力も無限である。聖書は、神の霊感によって、神に選ばれた有限の人の手で書かれている。そして人は無限の霊の世界を宗教の世界として受け入れ、理解している。
 一方、科学の世界の数学には、集合論がある。落合仁司同志社大学経済学部教授は「数理神学を学ぶ人のために」(世界思想社)の「第2章 神は誰か」で、『①神は無限集合である。②神の啓示は無限集合の部分である。③神の受難は無限集合の限界である。』さらに「第3章 神の受難」で、『①救済は神の受難において可能になる。②神は弱さにおいて完全になる。③神は受難する。④神の限界は自己である。』と主張されている。  私は『集合論の図(ベン図)で「神の愛」を表せば図1のようになる』のではないかと思う。

図1 「神の愛」の集合論の図(ベン図)
図1のUは全体集合を表しており、これは無限である。一見、図においては、『「父なる神の愛」「イエス・キリストの愛」「聖霊の愛」』は、有限に見えるような気がするが、例えば自然数を図形(円、多角形等)として表現した場合、その図形の中に存在する自然数は無限に存在している。なぜなら、自然数nには必ず後続する自然数n+1が存在するので、自然数は限りなく存在する。すなわち自然数は無限に存在する。同じように、この図の『「父なる神の愛」「イエス・キリストの愛」「聖霊の愛」』は、有限ではなく無限を表していると理解できる。そして、自らの罪を悔い改めた者は、イエス・キリストの十字架の死により罪が贖われて、イエス・キリストの愛の中に入り、合わせて聖霊の愛に満たされて、無限の神の愛の中で生きていくことができるようになると思う。


第5章 おわりに

 われわれ人類は、被造物の管理を創造主より委ねられ、科学技術の進歩を重ねてきた。毎日の生活において、コンピューターやスマホは現代の寵児である。これらは私たちの生活に驚くほどの影響力を与えている。一方、約3000年以上前に造られた旧約聖書の創世記から宇宙の創造の記事を読み、合わせて約2000年前の新約聖書により、聖書神学の基本を学んでいる。もし、ダビデやヨハネが新幹線やTVを見たならば、卒倒するほど驚くかもしれない。全く不思議なことである。
 時代が過ぎ、世の中がどのように変化しても、「罪のために滅び行くしかない運命に対して、そこから救われるために神が与えた救いの道に関する喜ばしいメッセージ」が福音である。経済学者の矢内原忠雄は「真の宗教は、科学的合理主義を含みつつそれよりも大きく、道徳主義を含みつつそれよりも高くある。」と述べているが、厳密性には欠けるリスクを承知の上で、拙い科学知識と未熟な聖書研究により、「無限の神の愛」を説明させていただいた次第である。


参考文献
■E・ケァンズ(1957)「基督教全史」聖書図書刊行会
■宇田 進 他(1991)「新キリスト教事典」いのちのことば社出版部
■内村鑑三(1961)「内村鑑三聖書注解全集第十四巻」教文館
■岡田稔(1985)「改革派神学概論」聖恵授産所出版部
■落合仁司(2009)「数理神学を学ぶ人のために」世界思想社
■尾山令仁(1989)「聖書の教理」羊群社
■加藤常昭(1992)「ハイデルベルク信仰問答講話(上)・(下)」教文館
■久保有政(1989)「科学の説明が聖書に近づいた」レムナント出版
■小久保英一郎 嶺重 慎(2014)「宇宙と生命の起源2」岩波書店
■小和瀬 勇(2017)「キャリアデザイン学科における数理系教科指導の役割」(新島学園短期大学研究紀要38号)
■小和瀬 勇(2019)「宗教と科学についての考察」(新島学園短期大学研究紀要40号)
■酒井邦嘉(2016)「科学という考え方」中公新書
■佐藤勝彦(2012)「100分で名著 アインシュタイン 相対性理論」NHK出版
■財団法人鉄道総合技術研究所(1997)「超電導リニアモーターカー」
■J・I・パッカー「神を知るということ」いのちのことば社
■ジェリー・メイヤー ジョン・P・ホ-ムズ「アインシュタイン150の言葉」ディスカヴァー・トゥエンティワン
■玉木 鎮(1969)「ウェストミンスター小教理問答講解」聖恵神学シリーズ
■日本基督改革派教会大会出版委員会(1994)「ウェストミンスター信仰基準」新教出版社
■原島 鮮(1963)「物理学(下)」学術図書出版社
■フランク・コール(1960)「キリスト教弁証論」 聖書図書刊行会
■三田一郎(2018)「科学者はなぜ神を信じるのか」講談社
■矢内昭二(1969)「ウェストミンスター信仰告白講解」新教新書
■矢内原忠雄(1968)「キリスト教入門」角川選書