文字メッセージ『新島襄の自責の杖』



文字メッセージ「新島襄の自責の杖」

聖書箇所(新改訳2017:イザヤ書53章4・5節)

上豊岡キリスト教会牧師
小和瀬 勇

◎まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。

(イザヤ書53章 4・5節)

 新島襄は、江戸時代の末期1843年安中藩江戸屋敷で生まれました。少年時代に、漢学・オランダ語等の西洋の学問とキリスト教に触れました。1864年21歳の時に、函館から鎖国の日本を密出国しました。

 翌年、アメリカのボストンに着きました。神様の恵みによって、新島襄はボストンの有力クリスチャンでありましたハーディ夫妻が息子同様に全面支援してくださいました。新島襄はフィリップスアカデミー・アーモスト大学・アンドヴァー神学校を卒業しました。1874年(明治7年)に、新島襄は帰国し、4週間安中に滞在し、キリスト教の伝道を行いました。その結果、4年後、1878年(明治11年)に、新島襄自ら30名の方に、洗礼を授けました。(男16名・女14名)直ちに、安中教会が設立されました。

新島襄は1875年同志社英学校を開校しました。しかし、1880年、愛媛県に出張旅行中に、学校に大事件が発生しました。入学時期が異なる学生を合併授業にしたことに反発した学生が無断欠席(ストライキ)をしてしまいました。新島襄は、人間の罪をゆるし、罪から解放されるために、十字架にかかられたイエス様の死を真剣に思い詰めました。新島襄は、全校生徒・教職員を一同に集め、「同志社英学校の責任者は私校長の新島襄です。」と言い、自ら右の手に杖(ムチ)を持ち、左腕を何回も何回も打ち、血だらけになったのです。堀貞一という学生は、イエス様の十字架の贖いを確信し、信仰を持ちました。

◎キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を 離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。

(ペテロの第一 2章24節)

 このみ言葉は、イザヤ書53章の引用によるものです。新島襄は、学生をゆるすために、自らの手(体)を打ち、傷を受けました。イエス様は、私たち人類の罪をゆるすために、十字架にかかられ、その身に傷を受けられ死なれました。そのゆえに、私たちは罪ゆるされ救われるのです。心から、イエス様の十字架を感謝し、平安の中に生きましょう。

◎そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何 をしているのかが分かっていないのです。」

(ルカの福音書23章34節)

 私たちが自分には気が付かないうちに、イエス様は私の罪をゆるすために、十字架にかかられて、祈られています。